ロージ神父は、インクで真っ黒になった聖書を取り出し、 真白な絹のハンカチを惜し気もなく汚して、表紙をふき取った。

「ああ……中のページまで、染みになっちゃいましたね」

「いいんです……まあ聖書は13歳の時に暗記しましたから。」
 ……といったものの、眉が小刻みに震えている。

 秀才ぶりをさりげなくアピールしながら怒る器用さにはちょっと感心する。

ウリエルが気配を殺して、私の背後からささやく。
「くく……どうだマリア、神父のこの慌てようは。」

「ウリエル……やっぱりアンタの仕業だったのね?」

「はははは……神父をからかうのは、いい暇つぶしだ。」

「……暇つぶしじゃないわよ。ロージ神父、困ってるでしょ。聖書をこんなにして!」

「出世と競争の好きなゲス野郎にはピッタリの装丁さ。世界に一つしかない逸品だぞ?」

「勝手な真似しないで!」

「マリア、もう法王庁に戻れ。夕闇が深なれば、他の悪魔が動き出す。」

 街行く人々……カップルや友人同士、家族連れなど……皆、誰もが幸せそうに見えた。

 神父と私は、ここでは浮いて見えるだろう。


 その時。
「きゃああああ……!!」
 ごく近くから、叫び声が聞こえた。

「来るな!来やがったら、このガキを切り刻むぞ……!!」

大通りに面したリストランテの前で、一人の女性が子供を抱えて肉包丁を振り回す。

見た目は20歳前後の美しい女性だが、その声は男性と獣のようだ。黒い髪を振り乱し、足をびくりびくりと痙攣させて包丁をふりまわす姿は、野獣のようでもあった。

悲鳴は子供の母親だろう。泣き叫んで子供を奪い返そうとする母親を、ロージ神父が止めた。



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